プロフィール

このサイトは自分の履歴書 兼 名刺がわりにしようと思っていたりするので、自分自身のプロフィールを書いておこうと思います。

ちなみに、生い立ちから現在に至るまで思い出せる限りだらだらと書いていくので、興味ない人にとっては相当長くなると思うので、まあ好きなように見ていってください。

※ごめん。まだ途中だったりするの…

とりあえず現状!

2018年3月末で、14年間勤めていた会社を退職しました。

理由は「社会人になってから」の所に詳しく書かれるのかもしれないし書かれないのかも、単純に「やってらんねぇ」というだけ(笑)

「これから何をするか?」というのは明確に決めていないです。自分が面白いと思うことをやりつつ、ブログに書いていって結果としてブログで生計立てられればそれはそれでいいし、なんか大きく手を広げたくなって、自分で法人作るというのもいいと思っているけど、とりあえず給与所得で食っていく気は全くないですw

それでは生い立ちからどうぞ

出身は東京都。生まれも育ちも東京葛飾。
誕生日は1981年5月22日、5人家族、3人兄弟の3男として生まれました。

これは多分、最初で最後の兄弟全員で写っている写真w

幼少期の記憶

父は町工場を営んでいて、母も事務員として働いていて共働きだったので、日中はずっと保育園に預けられていました。

幼少期の記憶なんて普通あまりないですよね?

覚えているのは、保育園が年小・年中・年長で別れていて、自分の年は僕ともう一人の女の子しかいなかったこと。雲梯で遊んでいて落っこちて頭から血が出たこと。毎日ある昼寝の時間は好きな女の子の隣で寝るのが取り合いだったこと。夏にはお泊まり保育があって浴衣着て花火をやったこと。学芸会で「大きな株」をやっておじいさんの役をやったこと。竹とんぼ名人のおじいさんが来て竹とんぼを作ったこと。

なんか、家での記憶は全くないんだけど、保育園にいた時の記憶はおぼろげに思い出せるんだよね。きっと楽しかったんだろうなw

保育園を卒業して、2年後くらいに卒園式の写真が届いていないことを知った当時の保育士の人から、「写真が届いていないというのを聞いたので送ります。家が近いから良かったら遊びに来てね。」みたいな手紙が写真とともに来たので、暇だったお正月のある日にその先生の家に何の連絡もなしに遊びに行って、家の中でコタツでみかんを食べながらいっぱいあるプラモデルを「いいな〜」とか言っていたら、「あげるよ」と言われて喜んで受け取る。そんな子供でした。多分、アホな子だったんですね〜

ちなみにその保育士の人からの手紙はいまだに持っていたりします。

家での記憶があまりないのは、やっぱりあまり楽しくなかったからなんだろうな。兄が2人もいたので、事あるごとに2人はケンカするし、僕はこき使われるし。あと、母親が「エホバの証人」という宗教をやっていて、奉仕というのに連れて行かれていたのも、結構効いているのかも。

兄とのことはこの記事でちょっと書いているな〜

ちなみに、「エホバの証人」は高校生ぐらいの頃に辞めています。現状、僕は宗教に関しては特に何も信仰していませんし、信仰する気もないですが、否定もしません。細かいことは書きませんが、自分の意志ではないとは言え、どっぷり宗教に浸かっていたのもあり自分なりに出したのは、「宗教というのは必要な人にとっては必要だし、なくてはならないものなんだな。」という結論です。

小学生時代

小学校時代は年単位で仲良く遊ぶ友達が変わっていたなー。保育園は小学校の学区とは全然離れていたので、完全に新しいコミュニティに飛び込んだ形だった。

小学校に上がったばかりの頃にとても楽しみにしていたのは給食!

でも、最初の給食が「食パン1枚」と「ジャム」と「牛乳」だったことは今でも忘れない。そんなことをこの記事で書いてたw

小学生の頃はよく遊ぶ友達が毎年違っていたような気がするな。

小学校時代の交友関係

1年生の時は、ちょうど小学校に上がる直前に引越しをしたので、近所に友達はいなかったんだけど、たまたま外を歩いていたら同じ学年の子と会って意気投合してから、その子の知り合いと次々仲良くなってそのコミュニティにいた。

2年生の時は、自転車を改造するのと、ミニ四駆が流行っていてそのコミュニティで遊んでいた。ただ、あまりお金を持っていない小学生だったので、当時の「お金をかけた者が強い」というミニ四駆市場では勝てないと諦めていたw

確か当時のお小遣いは、1年生なら月に100円、2年生なら月に200円…とかだった気がする。その上で僕は自分が欲しいものをあまり買って貰えなかったような気がする。何でかというと、上に2人も兄がいたので、基本的におもちゃの類はすでにいっぱいあったの。大量のキン消しとか、プラレールとか、ファミコンとか。だから僕が新しいものを買って貰うことは少なくて、兄達のお下がりを貰うか、借りて遊ばせて貰うことが多かった。

あと、誕生日やクリスマスは祝わない家庭でした。宗教の関係で。それが嫌だったとかいう感情はないんだけど、軽く弊害があってプレゼント貰ったり、お祝いして貰っても喜び方がよくわからないんだよねw「あ、どうも。ありがとうございます。」的なことしか言わないので、何度も「感情が伝わらない」と言われた経験あるんだけど、ぶっちゃけ「普通です」という感じなのだ!感情がないという訳じゃなくて、節目や記念日という時期的なものでお祝いされても、「そりゃ、時間が経てばその時が来るでしょ」と思っちゃうの。

当時の収入源は毎月のお小遣いと、大きかったのはお年玉。親戚がいっぱいいるわけではなかったので、基本的に宗教と関わっていない父と、父方の祖母と、母方の祖母と、母方の叔父さんからだったかな。お年玉の運用は、郵貯に預けて自分で引き出す運用でしたね。だから1月にいっぱいお金使って、後の月は細々と運用していた。

今振り返るとこの頃から自分でお金の運用していたのか…

3、4年生の時は、転校してきた子がいっぱいゲームを持っていたので、その子の家に入り浸ってゲーム三昧していた。

5、6年生の時は、バスケ(スラムダンク)とサッカー(Jリーグ)が流行っていた時期で、外で遊ぶことが多かった気がする。この頃に、前の年にブラジルから転校して来たスポーツ万能すぎる子がいたので、みんなの中心になって遊んでいた。僕はスポーツはからっきしですね。バスケはまだ大丈夫なんだけど、サッカーとか野球は全然ダメだった。

ブラジルからの転校生って珍しいよね。最初は全く日本語しゃべれなくて、「何でわざわざ日本になんか転校して来たのかな?」って思ってました。でも、よくよく話を聞くとどうも日系二世だったようで、父親が日本人で日本に戻ってきたかったからだった。

年齢で言えば5年生にあたるけど、4年生として編入してきて、5年生が終わる前ぐらいに一度ブラジルに戻ったのでお別れ会をしたんだけど、すぐにまた戻ってきてその後は卒業まで一緒だった。今ならわかるけど、多分お父さんは日本からブラジルに渡ったブラジル移民だったんだろうね。

これは大正時代のポスター。流石にこんなに古いのではないだろうけどw

日本からブラジル移民そして、日系ブラジル人の日本への出稼ぎについては、「日系ブラジル人100年の歴史 – NAVER まとめ」にまとまってました。興味がある人は読んでみてください。

小学校時代の習いごと

小学校低学年の頃は、公文、水泳、習字を、4年生か5年生ぐらいからは学習塾に通って、中学受験を目指すようになった。公文は自分でガンガン問題解いていって、講師に見せて採点して貰ったら、すぐ次の問題。みたいなサイクルだったので、おかげさまで算数と国語に関しては学校の授業は完全に追い越していたような感じだった。

水泳は結構きつかった気がする。ひたすら泳がされるので、クロール・平泳ぎは結構泳げるようになった。バタフライを覚える前ぐらいで、練習が嫌になってやめた。水泳やっていた時は、週3ぐらいの頻度だったのもあって、よく食べていたけど、普通の体型だったんだよね。

それが、水泳を辞めた途端にこんなことになるとは…(一番右の男の子)

親にもよく言われました。「運動しなくなったけど、食べる量は変わっていないね。」って、そりゃ太るわー。

学習塾に通うようになってからは、他の習いごとは全部辞めて、ほぼ毎日学校終わったら塾に行くような生活だった気がする。朝から学校行って、学校終わったら夕方まで遊んで、そのまま塾に行って、帰ったらゲームして…この頃から夜型の生活になってて、遅刻が多くてよく怒られていました。

勉強はそこまで好きではなかったけど、小学生の頃から算数と理科だけはすごく得意で、社会と国語とかの文系な教科はとても苦手だった。算数はやればやるほどレベルアップできるし、理科は色々なものの仕組みがわかるというのが、とても知的好奇心を満たしてくれました。

社会とかが苦手なのは、単純な暗記をさせられたり、書かれていない作者の意図を聞かれてりするので、覚えられないし「知ったこっちゃない」ってなるんだよね。今思えば、歴史はその時代に起こったことに対して、背景から説明してくれていたら、もっと楽しく勉強する気になったのだろうけど、「僕は文系の教科は無理だ」とこの頃から勉強する気すら無くしてましてね。

偏差値は55あたりをずっとウロウロ。塾に行き始めた時から多分中学受験するまでひたすら55付近だった気がする。周りの人達は「もっといい点を取りなさい」とか「苦手な教科を克服するんだ」とか言ってくるんだけど、「もっともっといい点とって褒められるんだゾ!」とか言っちゃうような可愛げのある子供ではなく、「はいはい」って聞き流すようなちょっと冷めた感じだったので、「あんたは本当マイペースだね」ってよく言われました。

生まれた時から兄弟がいて、人生の差を大きくつけられた環境で、しかも宗教と習いごといっぱいやってたら自然とそうなるような気もする。(嫌だなこんな小学生w)

そんな「マイペース」でちょっと「冷めた」感じの小学生だったんだけど、小学5年の時に赴任してきた先生は、「限界を決めているのも、超えるのも、自分次第」ということ。

僕はとにかく運動が苦手だったので、鉄棒の”逆上がり”は小学校5年生になっても出来なくて、「自分には一生できないだろう・・」と思って完全に諦めていたんだよね。でも、この先生は「そんなことはない必ずできるはず!」と指導してくれて、体育の授業中はもちろん、放課後も逆上がりができない子(4人〜5人かな)を集めて、ひたすら逆上がりの練習をさせられた。

今の時代で言えば、「ブラック」だよね。当然、その先生のことを嫌っている子も何人かいた。

それで…1ヶ月以上はかかったのかな?
ある日できるようになったんだよね。逆上がりが。単純にただただ、諦めずに続けたというだけ、といっても僕一人ではなく先生も諦めずに続けてくれたのが大きかった。普通は先生も義務とはいえ、1週間もできなかったら諦めると思うんだけど、本当に出来るまで付き合ってくれた。それが大きかったのだと思う。

しかも、「逆上がりができた」というだけだったのに、その後は鉄棒の他の技(小学生の技表みたいなやつに載っているの)が全てできるようになったんだよね。今思えば、諦めずにコツコツ続けた事で、自分が作っていた「僕には出来ない」という壁を、自分自身で破って自分の限界を超えるという成功体験をこの時、味わったんだと思う。

中学生時代

※工事中※

書くかもしれないし、書かないかもしれないよ!

高校生時代

※工事中※

書くかもしれないし、書かないかもしれないよ!

大学生時代

※工事中※

書くかもしれないし、書かないかもしれないよ!

社会人になってから

※工事中※

書くかもしれないし、書かないかもしれないよ!

 

Posted by SugiyamaYukio